大晦日の晩、それぞれの集落の青年たちがナマハゲに扮して、「泣く子はいねがー、親の言うこど聞がね子はいねがー」「ここの家の嫁は早起きするがー」などと大声で叫びながら地域の家々を巡ります。
男鹿の人々にとってナマハゲは、怠け心を戒め、無病息災・田畑の実り・山の幸・海の幸をもたらす、年の節目にやってくる来訪神です。
ナマハゲを迎える家では、昔から伝わる作法により料理や酒を準備して丁重にもてなします。
男鹿市内の「ナマハゲ行事」は、かつて小正月に行われていましたが、現在は12月31日の大晦日に行われています。後継者不足などで、年々行う地区は減っていましたが、近年、復活の動きもみせています。
昭和53年「男鹿のナマハゲ」として重要無形民俗文化財に指定されました。
平成30(2018)年11月29日、男鹿のナマハゲなど8県10行事は「来訪神:仮面・仮装の神々」として国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録されました。
冬、囲炉裏で長く暖をとっていると、手足に火型(火斑)ができます。
これを方言で「ナモミ」と言いますが、怠け心を戒めるための「ナモミ剥ぎ」が「ナマハゲ」になったと言われています。
「ナモミ剥ぎ」は新年を迎えるにあたっての祝福の意味もあり、子供や初嫁といった家の新しい構成員が対象とされます。
出刃包丁 御幣 |
「ナモミ」を剥ぎ落とすための「出刃包丁」や地域によっては、神のしるしとしての「御幣(ごへい)」を付けた杖を手に持って巡ります。 |
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面 | 木の皮、木の彫刻、ザルに紙を貼ったもの、紙粘土など様々な素材が使われています。最近はプラスチック製や地元の木彫師による面も多く使われるようになりました。 |
ケデ | ワラ製のミノ状にした衣装。面とともに神に扮する象徴的な衣装です。ケダシ、ケンデ、ケラミノなどともいいます。 |
ハバキ | ワラで編んだ脛(すね)あて。これを着けるのは他所から来ることを意味します。 |
わらぐつ | 雪中、遠くから来るためのワラ製の靴。 |
漢の武帝に桃を捧げる図/赤神神社所蔵
中国の漢の時代、武帝は不老不死の薬草を求め五匹のコウモリを従えて男鹿にやってきた。五匹のコウモリは鬼に変身して武帝のために働いたが、ある日「一日だけ休みを下さい」と武帝に頼み、正月十五日だけの休みをもらい村里に降りて作物や家畜、村の娘たちまでさらい、あばれまわった。
困り果てた村人は武帝に「毎年ひとりずつの娘を差し出すかわりに、一番どりが鳴く前のひと晩で、鬼たちに海辺から山頂にある五社堂まで千段の石段を築かせてくれ。これができなかったら鬼を再び村に降ろさないでほしい」とお願いした。
ひと晩で千段は無理と考えた村人だったが、鬼たちはどんどん石段を積み上げていった。
あわてた村人は、鬼が九九九段まで積み上げたところで、アマノジャクに「コケコッコ」と一番どりの鳴き声のまねをさせた。
鬼たちは驚き、怒り、そばに生えていた千年杉を引き抜き、まっさかさまに大地に突き刺して山に帰って行き、二度と村へは降りてこなかった。
赤神神社五社堂(重要文化財)
五社堂へ続く階段
男鹿の本山・真山は古くから修験道の霊場でした。時々、修験者は山伏の修行姿で村里に下りて、家々をまわり祈祷を行いましたが、その凄まじい修験者の姿をナマハゲとして考えたという説です。
遠く海上から男鹿を望むと、日本海に浮かぶ山のように見え、その山には村人の生活を守る「山の神」が鎮座するところとして畏敬され、山神の使者がナマハゲであるという説です。
男鹿の海岸に漂流してきた異国の人々は、村人にとってはその姿や言語がまさに「鬼」のように見えました。ナマハゲはその漂流異邦人であるという説です。
ナマハゲに関する記録で最も古いのは江戸時代の紀行家、菅江真澄(1754~1829)の「牡鹿乃寒かぜ」です。そのなかで、文化8年(1811)正月15日に訪れた男鹿の宮沢のナマハゲを生身剥ぎ(ナモミハギ)として詳細な解説と絵を残しています。
そのほかナマハゲは、民俗学的見地から多くの研究の対象ともなり、柳田国男(1875~1962)の「小正月の訪問者」や折口信夫(1887~1953)の「まれびと」、また岡本太郎(1911~1996)の「日本再発見―芸術風土記」などに取り上げられています。
男鹿の民俗学研究者、吉田三郎(1905~1979)は、昭和十年(1935)「男鹿寒風山麓農民手記」で地元の脇本村大倉のナマハゲについて詳しく紹介し、その後南秋田郡全域にわたるナマハゲ調査を実施しました。吉田三郎の著書は、その後のナマハゲに関する研究の先駆となりました。
「牡鹿乃寒かぜ」
秋田県立博物館所蔵写本